この地下トンネルが作られたのは江戸時代とのこと。大きさは乗馬した騎馬武者が、そのまま走り抜けることができるほどだったという。こうした地下トンネルが付近に縦横に走っており、途中他のビルで分断されその先までは調べることが不可能であったが、江戸城にまで通じていたのではないかと云われる。
ゼネコンの方と話す機会があったため、こうした地下トンネルについて尋ねたことがある。彼によると、都内の工事ではこうした地下トンネルが発見されることはよくあることだとという。しかし、出てきたとしても民間工事ではビルの地盤の脅威になるため、すぐに埋め戻してしまう。笹寺近くの江戸時代の地下トンネル発見の情報は、まさに幸運というほかない。
江戸時代、この笹寺は二代目服部半蔵の専横ぶりに反抗した完全武装の伊賀組同心らが立てこもった寺として有名だ。伊賀組の者たちは、二代目服部半蔵の罷免を訴えた。常々不思議に思っていたことだが、弓や鉄砲で完全武装した200人もの伊賀組の大部隊が往来を移動するのは不可能だし、たかが47人の赤穂浪士が吉良邸を囲むのにさえ、相当に気を使っているではないか。当時の記録にも、伊賀組の武装部隊が往来したなどという記述は見当たらない。
これは想像だが、江戸は城を中心に寺社をこうした地下トンネルで結んで、巨大な地下要塞が張り巡らされていたのではあるまいか。寺社は戦国時代を通じて砦や要塞として機能した。だとすれば伊賀組は完全武装してその要塞のひとつである笹寺へ地下トンネルを通じて移動し、立てこもったとは考えられないか。付近には伊賀町だけでなく、鉄砲百人組、甲賀者の組屋敷、煙硝蔵(火薬庫)などがある。
江戸は城だけでなく、町全体が要塞として機能するよう設計されていたのかもしれない。現存する江戸時代からの寺社を詳細に調べたなら、もしかしたら地下へと通じる入り口が密かに隠されているのかもしれない。
■江戸その隠された地底要塞とは?
http://pub.ne.jp/lost_arrow/?entry_id=199287
この本は日本軍の地下トンネルであると書かれているが、実は日本軍は江戸の地下トンネルを再利用していたのかもしれない、と考えるのですが・・・



こんなとこで、こんなことをコソコソと(笑)